ナーマスマラナ(神の御名を唱える)

 ナーマスマラナとはナーマ(神の御名)をスマラナ(憶念し唱えること)を意味しています。

サイババは、現在のカリユガ(暗黒の時代)に最も効果の高い霊性修行としてこのナーマスマラナを勧めています。神の御名を唱えることは、外側に向きがちな私たちの心を内側に向け、またいつも神を意識する効果があります。神の御名は、自分が選んだ神の御名でよいのですが、一旦選べばそれを守り続けることが大切です。また、神の御名を歌うバジャン(神への賛歌)もナーマスマラナであり、神への愛で心が満たされる体験となります。以下はナーマスマラナに関してのサイ ババの御言葉です。

ナーマスマラナに関するサイババの御言葉

 あなたは、瞑想や、苦行や、ヨガなどの厳しい霊性修行はできないかもしれません。でも、もし神の御名を唱えればそれで十分です。最も簡単な道、すなわちナーマスマラナ(唱名)に進みなさい。クリタユガでは、瞑想が解放の手段として定められました。トレーターユガでは供犠でした。ドワーパラユガでは人々は礼拝を行いました。“このカリユガではナーマスマラナ(唱名)だけがあなたに解放を与えることができる。これに勝る偉大な道はない”(サンスクリットの詩)。ですから、神の栄光を歌いなさい。そして世俗の海を渡りなさい。ナーマスマラナはすべての霊性修行の基礎です。ーサティヤ サイ スピークスVol.35

 神の御名を繰り返し唱えることとその成果について、どのようにしてそれが少しずつ人柄を変え、振る舞いを修正し、あなた方を円満にし、ゴールに近付けていくかについて、私が話すのを、あなた方は何回も耳にしてきたかもしれません。さて、これを行うには二つの方法があり、どちらも数珠(ジャパマラ)を使います。一つは、日々の生活におけるルーティン行動と同じくらい無意識に、機械的に、決めた時間どおりに、注意深く数珠を繰る方法です。もう一つは、本来はそのように行うべき方法、すなわち、目標の回数にこだわらずに、御名を繰り返し、その御名が表す御姿やその御名に含まれている神の属性に深く思いを馳せ、それを味わい、その中で喜び、御名の背景やその関連を楽しみ、その甘美さを享受し、その音楽の中でさまようという方法です。もちろんあなた方は、飢えの苦しみに悩まされたときにのみ、御名の味わいを切望するでしょう。世俗の物事に耽溺しすぎた結果として便秘に悩まされていたら、御名や御姿を味わうことはできません。-1961年2月27日の御講話より

 神の御名の力には比肩するものがありません。ひとたび神の蓮華の御足を避け所としたならば、決してそれを手放してはなりません。あなたがどこに行こうとも、神の御足があなたを守るでしょう。もし己のハートの中に神の御名をしっかりと据えるならば、あなたの人生は聖別されるでしょう。それが真の信愛(バクティ)です。それがあなたの力(シャクティ)です。それがあなたに解脱(ムクティ)をもたらすでしょう。人々にこの真理を実感認識させるためだけに、帰依者はアカンダバジャンという霊性修行を少なくとも一年に一回は実施するようにと指示されているのです。「アカンダ 」とは、24時間ずっと神の御名を唱え続けることを意味します。アカンダバジャンの最中に、たとえば食事を摂るなど、どんな目的でも、自分の家に戻ってかまいません。ただし、家でなんらかの仕事をしている間もナーマスマラナ(唱名)を続けなさい。あなたのあらゆる責務は、それをしている間に常に神の御名を思い起こしながら、対応してよいのです。それが主クリシュナのメッセージ「マーム アヌスマラ ユディヤ チャ(常にあなたの心の中に私を置き、最後まで戦いなさい)」の真髄です。-2007年11月13日の御講話

 ナーマスマラナ(神の御名を唱えること)から得られる至福や勇気や力をあなたに与えることのできるものは他にありません。たとえ一部の人々があなたを物笑いの種にしようとも、それを苦にしてはなりません。あなたが若かろうが、年老いていようが、裕福であろうが、困窮していようが、すべての人はナーマスマラナを行わなければならないのです。心の底から、抑制することなく、完全に集中して、すべてを捧げながら、神の栄光を歌いなさい。誰をも恐れてはなりません。そのとき初めて、あなたは神の至福を体験できるでしょう。今この瞬間から、この聖なるナーマスマラナを始めなさい。あなたのハートの中心から生じる御名をよく注意して見なさい。あなたのハートというヴィーナ(インド古来の弦楽器)を奏で、神の栄光を歌いなさい。悪い想念は不協和音を生み出すため、自分が悪い想念を抱かないように気を付けなさい。そのとき初めて、あなたは神の恩寵とエネルギーの受益者となるでしょう。あなたが至福に満ちた人生を送るように、私はあなたを祝福します。あなたは外界に至福を探す必要はありません。それはあなたの内面にあります。今日から、あなたの帰依心と全託の感覚をさらに成長させなさい。あなたがどこにいようとも、恐れを抱かず、神の栄光を歌い、真の人間としての人生を送りなさい。―2002年4月14日の御講話より

 今日、多くの人々が主の御名を繰り返し唱えることに重きを置いていません。それは大きな間違いです。多くの人がたくさんの問題に直面しているのは、彼らがナーマスマラナをしていないからです。今の時代(カリ)においては、神の御名を唱えることのみが、あなたの命を解放することができます。他の避け所はありません!主の栄光を歌うことは、非常に神聖です。あなたのハートという蟻塚の中には、不道徳な性質というたくさんの蛇がいます。あなたが神の御名を唱えれば、悪い性質という「蛇」たちはすべて出て行くでしょう。ナーマスマラナは、蛇を魅了して蟻塚から追い出すナーダスワラム(南インドの管楽器)のようなものです。この甘美な響きの御名(ナーダスワラム)を、あなたの命の息吹(ジーヴァスワラム)にしなさい。邪悪な性質を取り除くために、神の御名を途切れることなく繰り返し唱えなさい。ひとつひとつの通りすべてに神の栄光の歌を響かせなさい。あなたの体にあるひとつひとつの細胞すべてを神の御名で満たしなさい。-2002年4月14日の御講話より

 雑草のない、よく耕されたハートの中でのみ、神への愛は育つことができます。ですから、ナーマスマラナ(神の御名を常に唱えていること)によって、あなたのハートの準備を整えなさい。これは意識浄化の道、チッタ シュッディ ヨーガと呼ばれます。御名から生じる神聖な電流で、毎秒ごとに充電しなさい。あなたの舌の上に、あなたの息吹の中に、常に主の御名があるようにしなさい。それが、出来事の節目、あらゆる想念、すべてのものの中核にある神の御姿を思い起こさせるでしょう。それがあなたに神の仲間をもたらし、尽きることのない神のエネルギーと至福に触れさせるでしょう。それが、あなたに最大の恩恵をもたらすサットサンガ(良き交際)です。あなたの中にいる神と会話をしなさい。そして神から勇気と慰めを得なさい。神はあなたの進歩に最も関心を抱いているグルです。庵や聖地の中に、あなたの外側にグルを探し求めてはなりません。あなたの中にいる神は、父であり、母であり、師であり、友です。神は愛です。愛の中で生きなさい。それが聖賢たちによる指示です。 -1968年3月1日の御講話

 ダナ(お金)は、俗世間の通貨です。サーダナ(霊性修行)は霊性の通貨です。帰依者を自称する人が寄付を求めて会員名簿と本を携えてあなたのもとにやって来ても、彼らに一銭も提供してはなりません。瞑想(ディヤーナ)したり、神の御名を唱えたり(ナーマスマラナ)するのに、どうして集会場が必要なのですか?違う目的を持つ他人が同席することは、助けよりもむしろ邪魔になることの方が多いでしょう。そうではなく、あなたの家を寺院にしなさい。あなた自身の祭祀所で瞑想しなさい。あなた自身の家で愛を込めてバジャンを歌いなさい!なによりも、あなたの振る舞いを通じて、他者の模範となりなさい。穏やかで優しく、正直に話すことを実践しなさい。謙虚でありなさい。そして年長者への敬意を示しなさい。信仰と不動心と誠実さをもって生きなさい。その道が、団体を設立したり、寄付を集めたり、寺院を運営したりすることよりも、多くの人々を有神論のグループへ引き込むでしょう。覚えておきなさい。主が本当に気にかけるのは、神の御名と御姿を瞑想するときの誠実さ、純真無垢さ、安定した喜びであり、他のことではないのです!-1964年8月19日の御講話

 あなたのハートを取り囲んでいる激性と鈍性(ラジャシックとタマシック)な力は、あなたを失墜させようとしています。ちょうど、貧血を治すためにカルシウムとビタミンの錠剤を与えるように、心の貧血とその他の病を取り除くために唱名という錠剤を服用しなさい。主の御名は、心というヒランニャカシプにとってのナラシムハです。(ナラシムハ アヴァターは悪魔ヒランニャカシプを倒しました。)喉用トローチやドロップがあります。咳を鎮めるために、あなたはそれを口に含んでゆっくり飲み込まなければなりません。同様に、面倒を引き起こす激情や感情の急騰を取り除くために、主の御名をあなたの舌の上に置き、その味わいをゆっくりと吸収しなさい。その御名を舌の上で輝かせ続けなさい。それはあなたの内面も、外面も明るくするでしょう。それは、あなたの心(マインド)と同様に、あなたが唱えている御名を耳にする人々の心(マインド)も浄化するでしょう。神の御名を舌の上に保つことは、あなたの家の玄関前の階段にランプを灯し続けるようなものです。ー1963年4月29日の御講話

 神聖な生活は、落ち着いた平穏な性質(サットワグナ)に基づいています。それを育まなければなりません。この性質は、サトウィック(浄性)の食べ物によってのみ培うことができます。それは、健康や力や精神の明るさや熱心な努力を促進する食べ物です。飢えた人、弱っている人々に霊性というジュースを配っても役に立ちません。まず彼らの身体を強くして、強い信仰を抱いて、強い理想を持ち続けられるようにしなさい。身体の飢えは、最初にシンプルで清らかな(サトウィック)の食べ物を与えることによって満たされなければなりません。それから、あなたにとって最も魅力ある神の御名を繰り返し唱えなさい。軽い気持ちで御名を取り扱ってはなりません。たとえ施し物を得ようとして物乞いが口にした御名を耳にしたとしても、それに敬意を払いなさい。御名を唱える人が善人でなかろうが、善良な意図をもってなかろうが、その清らかさが損なわれることは決してないのですから、その御名にひどい扱いをしてはなりません。神を思い起こさせてくれたことに感謝し、自分の道を行きなさい。何よりも、神に呼びかける人々を笑ったり、邪魔をしたりしてはなりません。―1958年12月14日の御講話より

 最も必要とするときにすべての人に理解され始める古の聖者の英知のために、年長者たちは識別(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァーラーギャ)の手本を示さなければなりません。年長者たちが夢中になって感覚の悦楽を追い求めるのであれば、利己心と貪欲があるからといって若い世代の人々を、どうして責めることができるでしょう?年長者は自分が教えることを自ら実践し、神聖な生活がいかに喜びや精神的安定や満足や真の幸福をもたらすかを示さなければなりません。年長者たちは、毎日いくらかの時間を使って、ナーマスマラナや瞑想をしなければなりません。そうすれば子供たちもその雰囲気を吸収し、自分自身のために平安を獲得する方法を身につけるでしょう。人々は、神の御名ほど甘美なものはないと言いますが、まったくそれを唱えていません。無計画な破壊と放置によって、道路はぐちゃぐちゃです。しかし年長者たちは子供たちにそこを歩けと教えます。子供たちは、自分たちが騙されていることに気づくでしょう。実際、理想を語る人々の責任は大きいのです。その人は他の人にその理想を取り入れるように教える一方で、自分自身もそれに到達するよう努めなければならないのですから。―1958年12月14日の御講話より

 人生は、神に至る階段に似ています。あなたは生まれたときに最初の段に足をかけています。一日一日が昇るべき段なのです。ですから、着実に、注意深く、熱心に進みなさい。この先進むべき段数を数えたり、昇ってきた階段を振り返って喜んだりしてはなりません。一歩ずつきちんと昇るようにしなさい。それだけで十分な成功であり、満足と次の一歩を進めるための勇気がもたらされます。せっかく上がったステップから滑り落ちないようにしなさい。一段一段が大切にすべき勝利であり、無駄に過ごした一日一日は恥ずべき敗北なのです。「ゆっくり、着実に」をあなたのモットーにしなさい!定期的に、ふさわしい時間帯に、ナーマスマラナと瞑想というルーティンを着実に実行しなさい。ちょうど、医師がそれぞれ決まった量の薬を処方し、それより少なければ効果が出ないし、多ければ害になりますよ、と注意を与えるように、バランスよく霊性修行を行いなさい。やりすぎたり、十分な注意を払わず無頓着に行ったりしてはなりません。―1961年3月17日の御講話より

 アルジュナは主自身から霊的指示(ギーター ウパデーシュ)を受けました。なぜなら彼は深い悲しみ(ヴィシャーダ)、無執着(ヴァイラギャ)、全託(シャラナーガティ)、神へ向かう一心不乱の集中力(エーカグラタ)を体験したからです。解脱への熱望が言葉に尽くせないほど強くなったら、その高次の目的に寄与しない社会的慣習や世俗的規範などのすべて放棄することができます。プラフラーダが自分の父親を見限ったように、ビーシュマは自分の師に反撃し、ミーラーは自分の夫のもとから立ち去り、シャンカラチャールヤは嘘をついて自分の母親を口説き落としました。その解脱への思いを育むためには、ナーマスマラナが最良の道です。主の光輝という砂糖が染み込んでいる主の御名という甘美さが、いつもあなたの舌と心(マインド) に影響を与えるようにしましょう。このシンプルでありながら極めて効果のある修行は、階級や人種や性別や社会的あるいは経済的地位に関わらず、いつでも、誰にでも実践することができます。ー1966年3月16日の御講話より

 心の平安と内なる喜びという霊的な領域の中で成功するか否かは、すべて皆さん自身の責任です。皆さんには、その責任を他者に転嫁する権利がありません。燃料がなくなると火は燃え尽きます。ですから、燃料を補給するのをやめなさい。燃え盛る感覚の炎に燃料を補給してはいけません。心を一時的なものから切り離し、永遠なるものに結びつけなさい。心の中に信愛の種を蒔きなさい。それは神の御名の憶念(ナーマスマラナ)という準備運動のことです。この種は、美徳、奉仕、犠牲、愛、平常心、不屈の精神、勇気という枝をもつ樹木へと成長します。皆さんは食べ物を呑み込みますが、どのようにしてそれが活力、知性、感情、健康に変わるかを知りません。それと同じように、ナーマスマラナというこの霊的な食物を吸収してそれがいつの間にか美徳をはじめとする種々の「よいもの」に変わっていく様子を見守りなさい。―1961年2月27日の御講話より

 鶴をご覧なさい。鶴は水中で非常に速く歩きます。しかし歩いている間は魚を捕まえることができません。そのためには、静かにして動かず立っていなければならないのです。同じように、もし強欲や怒りやそれに類似する性質を抱きながら日常生活を送るのであれば、あなたは真理(サティヤ)、ダルマ、平安(シャーンティ)という魚を確実に手に入れることはできません。いかなる霊性修行に携わろうとも、人は途切れることなく神の御名を思い起こすこと(ナーマスマラナ)を実践しなければなりません。そのとき初めてあなたは強欲や怒りなどの生まれ持った属性を征服することができるのです。すべての聖典(シャーストラ)が教えるのはこの教訓一つです。神は普遍的ゴールであり、この人生という旅路の最終目的地は神なのですから、自分の選んだ道から外れないように、常に神を視野に入れ、心(マインド)を抑制しなさい。あらゆる善良な資質は、話し言葉のコンロトールと常に神を瞑想することを実践する人物に、自然と集まるのです。ー『プレーマヴァーヒニー』第56章より

 もしあなたが病気だったら、あるいはあなたの心(マインド)が他のことに夢中になっていたら、美味しい食べ物の味を堪能することはできないでしょう。同じように、もしあなたのハートが無知(タマス: 鈍性)で満たされていたら、あるいはあちこちにさまよっていたら、たとえ神の御名を思い起こし(ナーマスマラナ)、信愛の歌を歌い(ジャパ)、瞑想をしたところで、何の喜びも体験できないでしょう。舌の上に砂糖がある限り、舌は甘くいられるでしょう。同様に、信愛と呼ばれる光の柱がハートという廊下で燃え続けていたとしたら、そこに暗闇はありません。至福の中でハートは光に照らされるでしょう。舌の上に苦いものがあれば、舌全体が苦くなります。強欲や怒りという性質がハートの中に入り込むと、明るさは消え、暗さがその場を支配し、その人は数えきれない悲嘆と喪失の標的となります。それゆえ、聖なる神の御前に到達することを目指す人々は、一定の習慣、規律、資質を獲得しなければなりません。あなた方は霊性修行を通じて己の日々の生活を変えなければならないのです。ー『プレーマヴァーヒニー』第56章より

 ギーターの中でクリシュナ神は「ヤグニャ(供犠)の中では、私はナーマヤグニャ(御名を繰り返し唱える供犠)である」と宣言しました。悲しみを癒すため、喜びを得るためには、神の御名を思い起こすことのできる寺院が必要不可欠です。スマラナ(神の御名を思い起こすこと)は至福を授けます。これよりも実り多く、魅力的で、至福に満ちた活動はありません!「常に使える舌の上に、偉大でありながらシンプルな御名があり、人々が高らかな声で神の栄光を歌うことができるように、心を魅了する神像が安置された寺院があるというのに、なぜ人々は地獄の門へと急ぐのだろうか?」と、聖賢ヴィヤーサは訝しみました。同じように、いつも寺院の中に居住し、自分が味わった喜びを歌っていたトゥルスィーダースも「嗚呼!人々が神の御名と寺院を手放して、他の場所に平安と喜びを探し求めているとき、自分たちの皿の上にある豊かで美味しい料理を捨て去って、他人の皿の上にある残り物に手を伸ばしながら乞うている者たちの愚かさが思い出される!」と、嘆きました。―『ダルマヴァーヒニー』第12章より

 少しずつ、あなたは道の終わりにたどり着きます。一つの行為に続くもう一つの行為が、よい習慣へとつながります。何度も繰り返し聴くことで、行動するよう促されます。行動すること、よい仲間にだけ関わること、自分を向上させてくれる本だけを読むこと、神の御名を思い起こす(ナーマスマラナ)習慣を形成することを決意しなさい。そうすれば無知は自然に消失するでしょう。アーナンダスワルーパ(至福の化身)を観想することで、あなたの内面から湧き上がる神聖な至福は、あらゆる嘆きとあらゆる心配を追い払うでしょう。至福と歓喜を育みなさい。そうすれば悪い衝動や傾向は、ハートの中に足場が見つからないので、消滅するでしょう。光に向かって前進しなさい。そうすれば影は後ろになります。あなたはその影から離れて、自分自身の影を追いかけなければなりません。一瞬ごとに一歩ずつ神へと近づきなさい。そうすればマーヤー(迷妄)という影は後ずさりし、あなたをまったく惑わさなくなるでしょう。揺るがずにいなさい。決意していなさい。ー1964年2月11日の御講話より