全託に関するサイババの御言葉

全託の祈り

 全託の道は、子猫のような生き方です。いっさいの重荷を母猫に任せて、自分はミャーミャーと泣き続けるだけの子猫のように、完全に神に頼り切るのです。母猫は子猫を口にくわえて、もっと高い場所へと移動させたり、非常に狭い隙間をかいくぐって安全に運んだりします。同様に、帰依者はすべての重荷を神に委ね、神の意志に完全に全託するのです。この道の偉大な模範を示しているのはラクシュマナです。ラーマに奉仕するため、ラクシュマナは丸14年もの間、財産、妻、母、家庭、そして睡眠や食事すらも手放しました。ラクシュマナはラーマが自分のすべてであり、幸福であり、喜びであり、必要なものはすべてラーマが与えてくれると信じていました。ラクシュマナの人生の目的は、ラーマに従い、ラーマに奉仕し、ラーマに全託することだけだったのです。そのようにして、すべての重荷を神に委ね、絶えず忘れることなく神に従うのなら、神は必ずすべてを与えるでしょう。ー『プレーマヴァーヒニー』第51章より

 全託という言葉は、誤って解釈されてきました。人々は全託という名で怠惰を促進しています。私たちは自分の心(マインド)と体は神に全託していると考えています。あなたの心(マインド)はあなたの制御下にありません。それではあなたはどうやってそれを制し、神に与えることができるのですか?あなたは自分自身の体も管理していません。ですから、あなたが自分の心(マインド)と体を神に全託したと言うことは事実と異なります。横笛は、神に近い道具の好例です。横笛の中にある優れた性質は、それが完全に全託していることです。横笛の中には何も残っていません。余った欲望はまったくありません。実際、横笛の中は完全に空洞です。横笛には九つの穴があります。そして私たちの体という横笛にも九つの穴があるのです。横笛が神の近くに行くことができるのは、それが完全に空洞だからです。ですから、私たちが自分の体から欲望というドロドロしたものを取り除くことができれば、この私たちの体という横笛が神の近くに行くことができるということにも疑問の余地はありません。ー1974年夏期講習 第1巻 第3章より

「全託」という言葉は、与える者と受け取る者がいて、あなたが誰かに身を委ねることを表しています。二元性という感覚が、この「全託」という言葉の中に暗示されています。二重の心を持つ人は、半分盲目です。全託の真の意味は、すべての人の中に、そしてあらゆる場所に神が存在するという事実を認識することです。すべての存在(ジーヴァ)の中の神の存在を認識することが、「全託」という言葉の真の意味です。私たちは自分に命じられたあらゆる任務を自分の義務として遂行すべきであり、自分の義務をないがしろにして、ぼんやりと座り、自分はすべてを主に全託していると言うのは正しいことではありません。もしあなたが、自分の行うすべての仕事は、神を喜ばせるためのものであるという思いを抱くのなら、それは全託の正しいあり方です。自分がした悪い行いの結果をすべて神のせいにして、良い結果は自分の手柄にするようでは、全託していることになりません。―1974年夏期講習 第1巻 第3章より

 多くの人々は、特にカルマの道、バクティの道、グニャーナの道の中で、どれが他よりも優れているかと議論して時間を無駄にしています。これらの三つの道―仕事、礼拝、英知―はお互いを補完するものであり、相反するものではありません。仕事は足、礼拝は手、英知は頭のようなものです。これらの三つは協働しなければなりません。バクティ マールガは、個の意志を神の意志の中に融合させて、主の意志に全託(シャラナーガティ)する道に与えられた名前です。ラクシュマナはこの救いをもたらす全託の精神の最高の模範です。森での追放生活の間、あるとき、ラーマがラクシュマナに、彼の選んだ場所にあるわらぶき小屋に泊まるよう頼みました。ラクシュマナはショックを受けて、悲嘆のあまり倒れてしまいました。彼はラーマに弁明しました。「なぜあなたは私に場所を選べと言うのですか?私自身の意志などないことをあなたはご存じないのですか?あなたが決めれば、私はあなたに従います。あなたが命じれば、私はその命を実行します。」それが、常に無執着の修行をすることによって得られる、真の全託です。―1966年1月11日の御講話

 ゴーピー(牧女)たちは霊的な全託の秘訣を知っていました。牧女たちの礼拝は、取引をしようという意図によって汚されてはいませんでした。取引をし、利益を渇望する人々にとって、礼拝することすなわち見返りを得ることであり、彼らは1回いくらで満足を与える応唱をして参拝を売っています。彼らは雇われの使用人のようなものであり、やかましく給金や残業代やボーナス等々を求めます。彼らは自分がした奉仕(サービス)からどれだけ搾り取れるかを計算します。それとは逆の、家族の一員、親族、友人でありなさい。自分は神のものだと思いなさい。そうすれば、仕事はあなたを疲れさせず、もっとよくできるようにさせ、もっと満足感を与えてくれるでしょう。給金はどうでしょう? 神はあなたを至福の中にいさせるでしょう。これ以上何を求めることがあるでしょう? あとのことはすべて神に任せなさい。神はベストを知っています。神はすべてです。神を得ているという喜びは、十分な報酬です。この方向に沿って生涯を過ごしなさい。そうすれば、あなたが悲しい思いをすることはないでしょう。「※ナ メー バクターハ プラナシヤティ(私の信者は決して悲しみを味わうことがない)」と、クリシュナは言いました。ー1965年8月19日の御講話

 感覚を通じて体験する、物体から引き出される喜びを体験することを、人間に可能せしめているのは、肉体の中にある意識です。人間のみが、肉体への執着を手放すことによって、永続するものを探求する能力を持っているという真理を、ひとたび悟れば、意識の神聖な性質が明確になるでしょう。そうすれば、すべての行動を、神への捧げものとしてみなすことができます。そのとき、仕事は礼拝へと変わるでしょう。体と真我の同一視が進むと、個人的楽しみのために行われているように見えた活動が、神へ全託する活動へと変わります。この無私の精神で活動が行われるとき、人は、解脱という感覚を体験し、理解を超えた至福を享受することができます。それはすべて、真我の悟りへの実際上の第一段階である、感覚の制御から始まります。それは、人生の早い段階で始められなければなりません。この命の訓練を開始するのに、年齢を重ねるまで待っていてはなりません。死が扉を叩き、あなたが嘆き悲しむ親戚一同に取り囲まれているときには、神のことを考えている時間はないかもしれません。今ここで、神に向かう旅を始めなさい。ー1987年2月19日の御講話

 あなたが信仰と全託を培えば、己の行動の結果について心配する必要はありません。あなたの行動はもはやあなたのものではなく、神の者なのですから、あなたの思いと行動のすべては、清らかで、愛に満たされたものとなり、平安をもたらすでしょう。そしてあなたは解放されるでしょう。それゆえあなたのハートを清めて、そこに神が壮麗さと荘厳さに満ちて映しだされるきれいな鏡にしなさい。心(マインド)にまとわりついている欲望は、人の内なる普遍意識を曇らせる汚れです。あなたの感覚を制御しなさい。満足を求める執拗な要求に屈してはなりません。薪の上に死体が置かれて、火をつけられたら、死体も薪もどちらも灰と化します。同じように、感覚が打ち消されれば、心(マインド)も消えます。心(マインド)が消えれば、迷妄は止まり、解脱が達成されます。霊的勝利を得るための最良の強化策は、神を信じることであることを覚えておきなさい。―1966年3月17日の御講話より

 太古の昔から、人々はこれらのお祭りの内的意義を理解することなく、その外的な形式のみを守ってきました。プラクルティ(自然)が、ナヴァラートリに関する霊的真理を教えます。宇宙全体が一つの寺院です。主は宇宙に遍満しています。霊性修行を通じて、サイの愛を実感認識しなさい。サーダナとは、特別な場所で、あるいは特別な形で、神を崇めることを意味しているのではありません。それは、あなたがどこにいようとも何をしていようとも、常に神を思うことを意味しています。こんなことが可能なのかと尋ねられるかもしれません。すべての行動を神に捧げることによってそれは可能になります、というのがその答えです。ナヴァラートリ祭期間中は、アンガールパナ プージャーと呼ばれる礼拝が行われます。この礼拝形式においては、身体のすべての四肢(アンガ)が、全託(シャラナーガティ)の精神で神に捧げられます。全託とは、あらゆるものを神に捧げ、自分自身と神は別個の存在であるという考えを手放すことを意味しています。あらゆる存在の中に、そしてあなたの中に、同じ一つの神が宿っているという確信を持ちなさい。エーコ ヴァシー サルヴァブーターンタラートマ(一つのものがすべての生き物の内なる存在の中に棲んでいる)。 ―1992年10月6日の御講話より